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代表メッセージ

代表取締役 諸角義晴

建築そのものだけではなく、八ヶ岳の暮らしすべてにおいて、そしてさらには長い時間の中で「暮らし」をサポートすることをオルケアの事業と定めた背景には、代表 諸角義晴の半生と強い想いがあります。なぜオルケアは、八ヶ岳で、「楽(たの)しく」、「楽(らく)に」、「豊かな暮らし」を実現するために、事業・サービスを展開するのか。オルケア代表の諸角が、仕事にかける想いとその理念をお話します。

「暮らしの豊かさ」を見直したとき、進むべき道が見つかった

一生の仕事について考えた会社員時代

大阪万博を皮切りに、日本中が「経済成長」の恩恵を実感し始めた1970年代。東京の大学を卒業した私が就職した頃の日本は、自信と活気に満ち満ちていました。企業は永続的な成長を前提に多くの若者を雇用し、若者たちは競い合いながら大手企業の門を叩き、将来の豊かな暮らしを夢見てそれぞれのステージへとチャレンジして行きました。私が就職したのは、アメリカを代表する巨大な化学会社。世界的な企業で活躍できることに、大きな意欲を感じていました。入社後数年で本社のある米国デラウェア州ウィルミントンに転勤となり、より多くの顧客との接点を持ち、より大きな予算を扱うようになります。大企業の中で巨大なプロジェクトを動かしていくことが、若い頃の私に大きな満足感を与えてくれました。この時代に会社組織の中で働く日本の若者がそうであったように、「社内出世」を夢見て懸命に働きました。この会社で得た経験は、その後の私のビジネス人生の中で大きな糧となったことは間違いありません。

高度経済成長からバブル期へと差し掛かる時代

当時勤めていた会社の本社には、天にも突き刺さりそうな2つのタワーがそびえ立っていました。その本社前に立ちながら、いつかはこの塔のてっぺんで、会社を取り仕切ってやろうと将来の自分の姿を想像しようと思ったときです。ふと、自分の子供たちが隣にいたら、なんと説明するだろうかと考えたことがありました。「お父さんは、この大きな建物の中で、たくさんお金を稼いでいるんだ」とつぶやいてみました。なんだか「ふーん」という素っ気ない返事が返ってきそうです。ましてや自分に孫が生まれる頃、年端も行かないその子に説明するとしたら、なんと言えばいいのでしょうか。「お爺ちゃんは、この塔のてっぺんに居るんだ。偉いんだぞ。」と言うのでしょうか。これではなんだか、孫と仲よくなれそうにありません。この頃から少しずつ、「出世」という私自信が信じて疑わなかった将来の展望に疑いを持つようになりました。果たしてそれで本当に幸せなのだろうかという、漠然とした不安と疑問が生まれます。人が本来的に感動できることや理解できることと、私の仕事の間に見えない溝があるような気がしたのです。

日本で思うアメリカでの暮らし

日本の通勤風景

米国本社から再び日本へ転勤となった私は、東京郊外に一軒家を借りることにしました。会社は虎ノ門にあったので、通勤には片道1時間以上かかってしまいます。都心にマンションでも借りれば通勤はずっと楽だったはずですが、私にとっては勤務後や週末に家族とゆっくり過ごす時間と空間が、毎日の生活の中で何よりも大事な要素となっていました。米国での4年間の暮らしは、私の「暮らし」や「豊かさ」に対する価値観を塗り替えていたのです。

米国の、私が住んだウィルミントンでの暮らしぶりは、東京での暮らしとは少し違ったものでした。私が接した米国人たちは、家族や友人と過ごす時間を、何よりも大切にしました。週末は家族と一緒にいることが大前提。家族同士の付き合いも心地よく親密で、一緒に近郊の街へショッピングに行ったり、山間の公園へピクニックに出かけたり、余暇をたっぷりと楽しみます。そしてまた、日々の生活と自然との距離が近いことも、東京のそれとは違います。子供達は玄関を出て芝生の庭を越えれば、すぐに自然の遊び場を手に入れることができます。寒い冬、毛布にくるまってコーヒーを飲みながら朝日を眺める近所のご夫婦は、冬場こそ日の出の美しさと陽の光のありがたさを実感できる季節なのだと教えてくれました。退勤後には自宅のデッキで、ゆっくり1時間かけて夕日を眺めることを日課にしていた同僚もいました。季節と天気によって、夕日はその大きさと色合い・軌跡がまったく違います。毎日少しずつ違う夕日を眺めながら、1日の出来事を反芻したり、様々な想いに耽る夕暮れ時の1時間が、気持ちを落ち着かせてくれるのだと言いました。自然に寄り添うような、豊かな暮らしがウィルミントンにはありました。

暮らしへの価値観を変えたウィルミントンでの生活

八ヶ岳への移住とオルケアの設立

より善い暮らしと仕事を求めて、八ヶ岳へ

日本に帰国して4年が経ったころ、再び米国本社から声がかかりました。おそらくこの転勤は、会社員として将来へ向けた転機となるものでした。ウィルミントンでの暮らしに対する想いもあります。しかし私はこの話しを断り、八ヶ岳にある開発会社への転職を決めました。東京で生活しながら、仕事のこと、趣味のこと、暮らしのこと、いろいろなことを考え続けた結果です。自然と調和した生活、家族や友人との時間、私が大切だと考える暮らしの豊かさは、何も米国人や私だけが持つ価値観ではないはず。私と同じような気持ちで新たな生活と仕事の場を求める人が、特に東京には大勢いるのではないかと考えました。東京からほど近い八ヶ岳で、そうした人たちのお手伝いをしながら、私自身の「豊かな暮らし」を実現していこうと思ったのです。

オルケアの設立

八ヶ岳に居を構えてから、私の生活は思い描いた豊かさに少しずつ近づいていきました。家は職場のすぐ近く。家族と過ごす時間も増え、季節の移り変わりや自然の美しさを一緒に楽しむことができるようになりました。週末には友人を招き、近隣を案内したりバーベキューをしながら話をします。

季節の移り変わりや自然の美しさを楽しむ暮らし

開発会社での仕事も順調でした。ただ私は、その会社で働きながら、この先やるべきことの準備を進めていました。八ヶ岳で、「家づくり」をしたい。それもただ、「ハコ」としての家を提供する仕事ではなく、暮らしや地域の文化も含めた、「暮らしづくり」のお手伝いがしたい。私自身がこの八ヶ岳にやってきて求めたことを、そうした暮らしを求める人のために実現していきたい。長年にわたり描き続けてきた「オルケア」を設立したのは、2003年の秋でした。私を通じて八ヶ岳に家を建てたお客様が、自然との付き合いに触れ、家族との絆を育み、年を取り様々なライフステージを経て最後まで、

「オルケアさんにお願いして良かった」

そう思ってもらえるような、そういうサービスを提供する会社にしようと決めました。

八ヶ岳での暮らしをオールケアする会社

オルケア事務所

さまざまな暮らしのあり方

2016年現在、前職での経験も合わせると700棟以上の建築と暮らしのお手伝いをさせていただき、多くの方々とお付きあいをさせていただきました。「八ヶ岳で暮らしたい」と考え、オルケアにお越しいただくお客様には、それぞれのこだわりがあり、暮らしに対する考え方があります。お客様からのご相談やご要望を伺い、ご一緒させて頂いたお仕事の中で得た経験は、オルケアの知識となり財産となっています。ある方の暮らしの知識や工夫を、別のお客様にご紹介する。あるお客様がお気づきになっていない課題や問題を、他のお客様の実体験からご指摘する。様々なお客様の、様々な暮らしに触れてきたからこそ、あらゆる角度からお客様の八ヶ岳の「より良い暮らし」をご提案し、サポートすることができる。オルケアにはそうした自負があります。

八ヶ岳での暮らしを「オールケア」するために

オルケアは、「八ヶ岳の暮らしをオールケア」する会社であるために、八ヶ岳のお客様からの声をもとに、様々な事業を展開しています。「家を建てる」ことだけに終わらない、八ヶ岳での「トータル・ライフサポート・カンパニー」を目指しています。土地探しからお客様とご一緒し、お客様の求める「暮らし」を徹底的に考え、家が建った後も、建築の管理やメンテナンス、ライフステージの変化に伴う建築の「リフォーム、リ・デザイン」を承っています。

そしていま、土地や建物などの「ハード」面のみならず、日々の暮らしにまつわる「食」や「文化」、地域交流や地域経済の活性化など、八ヶ岳における「ソフト」面の事業・サービスの展開に力を入れています。

八ヶ岳での皆様の暮らしを「オールケア」するために。オルケアは日々努力を重ね、進化を続ける企業でありたいと願っています。